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2006年7月 9日 (日)

【日曜版】 お坊さんを中心とした道徳の授業を普及させよ 

あのね、僕はあんまり他の評論家の人の言うた事をなぞるのはあんまり好きやないんやけれども、これは現在の風潮を見事にとらえた、ええコメントやからなぞらしてもらいたい。

評論家の立花隆さんがNIKKET NETに連載しとるコラムの福井総裁の利殖問題に関して、最後にこのようなコメントを残しとる訳やね。

「小泉改革も、ふれこみは立派、見かけも立派だったが、その中心部は黒く腐っており、あらゆる権力中心部と同じように「キレイはキタナイ」だった。

周辺部ではリストラされたホームレスたちが力なくうごめき、国民の大半はゼロ金利とデフレ経済でエネルギーをすり減らす日々を送っているというのに、中心部には大儲けしてウハウハしている一握りの人々がいて、その連中はみんなつるんでいた」

これがホンマやとすると本当に嘆かわしいことやね。

どんなに高い名誉や地位を獲得した人でも、悲しいかな人間の性、どうしても人間、金銭に対する執着だけ断ち切れんようやね。

昔は名誉や地位イコール金銭ではなかったんやけどね。

例えば、鎌倉時代に大燈国師いう偉いお坊さんがおって、花園天皇が大徳寺をつくってもらいたいと思うた。探したら、どうも五条の橋の下で乞食をしとるということがわかった。

そこで花園天皇は一計を案じ、瓜が大好きな人やから、瓜があったらよってくるやろう思うて、瓜を持っていって寄ってきた大燈国師に大徳寺建設を依頼したわけやね。

大燈国師はその時、金銭がなくて賤しい身分であったんやけれども、徳の高い人同志やから、そんなもん関係ないエエもんはエエんやゆうて、どこか相通づるものがあって大徳寺建設を依頼したんやろね。

それから、僕は昔、「どら平太に失われた日本人の精神をみる」http://www.yorozubp.com/0302/030213.htm)いうコラムを書いて、明治以来どうして日本人は金銭に対する執着が強なってしまったのやろう思うて、3年前にこのコラムを書いたのやけれども、今回また、その一節を引用させてもらいます。


 「武士は無償・無報酬の実践のみ信じたという。奢侈は人格に影響を及ぼす最大の脅威と考えられ、武士の子弟は経済のことをまったく眼中に入れないように育てられたという。小平太の行動は、腐った武家社会への痛烈なアンチテーゼであったとも言えるし、その無私で無欲な行動は我々に爽快さを与えてくれる。

 このことは翻って現代社会にも当てはまる。新渡戸博士は明治の文明開化によって「詭弁家、金儲け主義者、計算高い連中」の新時代に入ったと嘆いたが、その嘆きは的を得たものであった。今は「文臣銭を愛し、武臣命を惜しむ」人々が横行する時代である。混迷する時局において、現代の功利主義者や唯物論者に対抗する、武士の徳目を備えた人物の再来が待たれる」

最後に、僕は「武士の徳目を備えた人物の再来が待たれる」と書いたけれども、そんなもん待っとられん訳ですわ。

梅原猛さんの本を読んどったら、明治以来どうして日本人は金銭に対する執着が強なってしまったのか、の答えが出ました。

平田篤胤ゆうひとがおったんやけれども、この人は神仏混合反対論者やったわけやね。その篤胤の唱える平田神道が明治維新の思想的原動力になった。その結果、廃仏毀釈、神仏分離がおこなわれた訳やね。

そして日本という国家を神とする、新しい神をつくってしもうた。

もともと天皇は明治以前は仏教信者やったんですわ。天皇になれない皇子は、門跡寺院の門跡になられたという伝統があったんですわ。

そこから無神論者が増えて、エリート層もそろって無神論者となった。宗教なきところに道徳なし、そこからはただ単に営利を追求する神仏なき資本主義のはじまりですわ。第二次世界大戦の敗北によってよりこの傾向に拍車がかかったと考えるべきやね。

韓国ではキリスト教の入信率が高いのに、日本ではそれほどではない、また先日、

田原本町

で母や弟を焼死させてしもうた子も仏教の本を差し入れてほしいと弁護士さんに頼んだらしい。

日本人の心の原風景には仏教があるんやと思いますね。

ここはお坊さん、自分にはその資格がないゆうて遠慮せんと、どんどん小学校でもおしかけて今の子供たちに仏教の道徳を教えてあげてほしいね。

2006年7月 4日 (火)

噛んで飲み込む力

ご無沙汰しております。お忘れでしょうが、5年前ほど前に無理に住職とのご面会を申し入れ、真田の話や人生の話をさせていただいた信州海野氏の流れを汲む無作法な者でございます。

住職は高野山高校の校長として、ひきこもりの生徒を受け入れる学級を作られ、今年は国家の重責を担う人材を育てんと京大特別進学コースを設けられたとか、ご活躍のほど山の下におります私にも伝わってまいります。

住職とご面会した際、私は「怒る、妬む、謗る、釈迦の言う三毒廃すれば洞察力備わるということを実践している云々」と小癪にも申し上げましたが、住職は言下に「あなたはそれだからいかんのです。人間らしく自然に怒るときには怒る、妬むときは妬めばよいのです」と否定されました。私はその時「自由自在とはそのような境地を指すのだ」と悟りました。

勿論、住職のこのお言葉は、その人となりをみて発した言葉であると承知しております。人間だれしも自由自在に生きたいと思い、社会の壁の前に挫折する生物であるとは存じております。

本年の住職の年賀状に「何卒無量の寿命にあやかられんことを」とありました。今年は、波乱万丈の年明けでしたが、周囲の介助もあり、自らの命を粗末にせず、なんとか命を全うすることが出来ました。

また人生に迷いました時、蓮華定院の門を叩かせていただきます。よろしくお願いします。

過日、素晴らしいメールをいただきました。終末医療の在り方に大きく示唆を与えるエピソードであると思います。

ここに紹介させていただきます。

(以下、高野山高校校長S校長のメール)

『噛んで飲み込む力』
柔道の試合中に頸骨を損傷して植物状態になってしまったある高校生。
三年間意識は回復せず、ついに母親も生命維持装置を外してくれと申し出た。
「最後に好物だった苺を食べさせてやりたい」しかし顎が固まり歯肉が腫れ歯もガタガタ。
歯科医が口をこじ開け歯肉マッサージをして母親が苺を差し入れた瞬間。
突然口が動いて飲み込み、一ヶ月後完全覚醒した。
九大医学部の信友浩一先生の体験。噛んで飲み込む力が生きる力だと。

2006年7月 3日 (月)

陽なたの竹

私が最も好きな格言の一つです。

(以下、引用)

話し終わって、石舟斎は、つぶやくようにこう述懐した。

南向きのやぶ竹とは、いったい何の比喩であろうかと、家臣たちは解けない顔をしていたが、そう例えられた当の宗矩には、よくわかっていたとみえて、面目なげにさし俯向いていた。

幼少の頃、父の石舟斎が、道場に立って、手ずから子を木剣で打ち鍛え、また訓戒するたびによく、

(―陽なたの竹ではだめだぞ!)

と、云ったことを宗矩は今、思い出すのであった。

宝蔵院の胤栄が、よく尺八を吹くので、その胤栄がある折、尺八のはなしにことよせて、

(ご当家もご子達がたくさんであるが、子を育てるには、北向きの藪竹にしておかねばいけませんな)

と云ったのを、石舟斎がひどく感心して、それ以来、つい子どもへも、口ぐせになって出ることばであった。

胤栄が云った尺八のはなしというのはこうである。

彼が、多年の経験に依ると、尺八を作るため、よい竹を探し求め、多年手にかけてみると、結局、地味も肥え、陽あたりもよい南向きの藪に育った竹からは、一本の名管も生まれたためしはない。

それに反して、地は痩せ、冬は氷や霜ばしらに虐げられ、生まれながら若竹のうちから、簫々と寒風に苦しめられて育った北向きの藪からは、勿論、笛にもならない拗者もできるが、多くの名管はみなそこから生えた竹にかぎるーという話なのであった。

(出典;「剣の四君子」から「柳生石舟斎」、吉川英治全集28、講談社)

2006年7月 1日 (土)

出る杭は・・・・・・

1997年、金融ビックバンのあおりで山一證券・日本長期信用銀行といった日本を代表する金融機関が破綻し、世の中が騒然とする中、当時失業中だった私は暗澹(あんたん)たる気分で、或る先生と酒を飲んでいた。

誠心誠意つくした筈の会社を半ば追われるようなかたちで退社した私は自暴自棄になって、

「出る杭は打たれる、という諺(ことわざ)がありますが、私は、出る杭はひっこぬかれる、という諺(ことわざ)を提唱したいですね」

というと、

Y先生は

「T君。それは違うよ。私は出る杭はひっこぬかれて、思わぬところに飛んでいき、別の場所に突きささる」

と返した。

二人顔を見合わせて呵呵大笑(かかたいしょう)した。

2006年6月24日 (土)

初稿の辞

本日より、自己の断片的な記憶を日記代わりに毎日綴ってみるという試みを行ってみたい。

この行為によって、自己の埋もれていた才能(感性と呼ばれるものだが)の再発掘が可能になればと考えている。

一日、五行前後を目標に書いてゆきたい。

感性豊かで機知に富んだ言葉で、社会諷刺のきいた文章を日々少しずつ書きためてゆくことが目標である。

この文章を書くうちに、こころが豊かになり、かつ自分独自の文体が確立できればシメタものである。